蕎麦屋に行ったら食べたいのがお蕎麦。
そんなお蕎麦の隣にあって嬉しいのが天ぷらです。
今では当たり前のようにある天せいろや天ぷら蕎麦。
そもそも天ぷらって元々はどうだったの?と思うかもしれません。
今回はそんな疑問にお答えします。
チガちゃんと言います。
現役の調理師で調理歴は20年以上の蕎麦鑑定士1級取得者です。
天ぷらの歴史
天ぷらと言えば高級なイメージがありますが遡れば江戸時代。
昔の天ぷらはどうだったのか。
江戸時代の浮世絵などにも書かれていた天ぷらは「屋台」でした。
そもそも江戸時代では、大衆食として馴染みが深かったようです。
江戸時代の天ぷらは屋台
屋台は橋の下や縁日の行事として出店していました。
様々な屋台の中でも「天ぷら」は格別に人気があったそうです。
屋台では次々と揚げられた天ぷらが並べていて、お客さんは天ぷらを自分で選び串に刺して食べて行く方式。
どんぶりに天つゆと大根おろしがあり、天つゆを付けて大根おろしをのせて食べていたそうです。
現代では天つゆより塩で食べるケースもあったりしますが、串が箸に変わったくらいで基本的には変わっていないと言うことです。
気軽に食べられていた江戸の天ぷら
江戸時代当時の天ぷらのネタは「1ネタ4文くらい」だったそうで、現在の120円くらいでしょうか。
コロッケを買うような感覚で、気軽に食べられたのが当初の天ぷらなのです。
小僧がお使いついでに立ち寄って食べられるほど気軽だったようですね。
屋台の天ぷらで使われる油はゴマ油が多かったようで、ゴマ油の香りに誘われて町の人々が食べに来ていたのが思い浮かべられます。
江戸前の天ぷら
江戸でとれる魚を使って揚げるのが江戸前天ぷら。
現在の東京湾でとれる新鮮な魚貝を提供するのが江戸時代の天ぷらの醍醐味です。
江戸の海は海水と淡水が入り交じった所で漁がしやすかったとか。
そんな漁であがった魚をさばいて天ぷらに提供していたことから「江戸前の天ぷら」なんて言葉があるようです。
野菜は格下だった
江戸時代に揚げていた野菜の天ぷらは魚介より格下の扱いになっていました。
そもそも名前が違って「精進揚げ」と呼ばれていました。
今でこそ野菜の天ぷらは魚介の色を添える大事な役割でもあります。
季節の野菜も美味しいですよね。
現代とは違って江戸の天ぷらは魚介がメインだったことが分かります。
蕎麦屋の天ぷら
蕎麦屋の天ぷらと言えば「天せいろ・天ぷら蕎麦」です。
熱々の天ぷらと一緒にお蕎麦をすすると、お蕎麦・天ぷら・蕎麦つゆの三位一体が味わえます。
江戸時代は天ぷら蕎麦だった
江戸時代の当初では天せいろといったお品書きは無く、天ぷら蕎麦だけだったそうです。
天せいろは昭和にはいってから作られたお品書きです。
名称は天せいろの他に天もり・天ざるとも呼ばれます。
歴史としては室町の砂場さんが1950年以降に天もりとして売り出したそうです。
蕎麦屋の天ぷらはなぜ分厚い衣なのか
先にも説明したように、江戸時代では天ぷら蕎麦しかありませんでした。
温かいお汁の上に天ぷらが入っているスタイルです。
天ぷらの油が蕎麦つゆにしみて旨いんですよね。
現代でこそ蕎麦屋さんも衣を薄くする所が出てきましたが、それは別皿に盛り天ぷら単体でも楽しめるように配慮したこと。
当時は「天せいろ」すら無かったので、別盛りにする発想はあまりなかったようです。
そのためにも蕎麦つゆに浮かせても天ぷらの衣が負けないように、分厚くあげて形を綺麗に保っていたのだと思います。
天ぷら屋さんで揚げるような薄衣だと剥がれてしまうからなんでしょう。
他にも衣を付けることで「花が咲いた」ようにあがることから、見栄えも気にして考えていたのかもしれません。
「天ぷらの衣で花を咲かせる」なんて言葉も実際にあったようです。
天ぷらが美味しいのは
天ぷらが美味しいのは何故でしょうか?
答えはシンプルで旨味が凝縮するからです。
天ぷらは基本的に「水・薄力粉・油・ネタ・卵」の5つから作られます。
天ぷら粉にネタを付けて油で揚げる。
天ぷらの衣に包まれたネタは、油の温度とは相反してゆっくり火が通っていきます。
ネタが脱水して、油が浸透して行くことで旨味が増していきます。
衣の内側はゆっくり蒸されていると考えると分かりやすいと思います。
外はカリッと・中はフワッと揚がるのは、内側が蒸されているからだとわかりますよね。
天ぷらは揚げ料理であって蒸し料理。
水分と油を交換することで旨味を凝縮させる物です。
まとめ
いかがでしたか?
想像するだけでも天ぷらを食べたくなってきましたか?
熱々の天ぷらをハフハフしながら食べ、一緒にお蕎麦もすすればお蕎麦の香りも蕎麦つゆの旨味も味わえます。
思い立ったらお蕎麦やさんに足を運んでみてはいかがでしょうか。
お読み頂きありがとうございました。
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